“alternative”に込めたメッセージ

“alternative(オルタナティブ)”に込めたメッセージ

◆“alternative(オルタナティブ)”という言葉と私

誰しも、忘れられない言葉があると思います。印象的な体験とともにある言葉であったり、映画や本の中でのそれとの出会いだったり。はたまた、音楽や何かの香りとセットになった思い出に紐づくものだったり。

忘れられない言葉

alternative」という言葉が、私の心にやってきたのは、22歳の時。ワーキングホリデーでニュージーランドにいた、ある日の午後でした。

オークランドという街のコミュニティスクールで英語のレッスンを受けていた私は、「環境問題」というテーマでのディスカッションに参加していました。

英語があまり上達せず、主に聞き役に回っていたのですが、5~6名の参加者の一人である、10代半ばのインド系少女が発した言葉に不思議なほど心惹かれたことを、今でも、まざまざと思い出します。

「alternative enegy」という、環境問題を語る際に出てくる、ごくごく一般的な言葉だったのですが、その言葉の響きに不意に心を奪われていました。

それまでにも、例えば「オルタナティブ ミュージック」という音楽のジャンル名を耳にし、言葉としては「alternative」を知っていたのに、そのときまでは何ら琴線に触れることはなかったのですが。

alternative:メインストリームではない別の方法、違う生き方、異なる視点、と私は解釈しています。

◆アンチテーゼ 「異議あり!」を言わなければならない。

ニュージーランドでの「alternative」という言葉との出会いの場面自体には、特段の深い意味はないように思われます。ただその時に出会ったという事実があるだけ(全てのことになんでも意味づけしようとするのは、今の世の中の良くない傾向かもしれません)。

「異議あり!」を言わなければならない

しかし、昔も今も私の中に変わらずある、「権力者や中心にあるものへの批判精神、「何か異議あり!と言いたい」という、ある種の“褒められない”要素に響く言葉だったのは間違いありません。

例えば、20代の私は、大学を卒業して就職するという“普通の道”を歩むことに言いようのない抵抗がありました。
また競技スポーツの世界にいた私は、競技成績という1つの物差しでランキングづけられ、脚光を浴びて“王道”を歩む人とそうではない多数の人がいることに怒り(ひがみ)を覚えていました(私はそうではない人側)。

会社員になってからは、「会社のミッション・ビジョン・バリューを浸透させる(られる)研修」や、「すべてを自己責任・個人の認知の仕方に押し付けるキャリア論やキャリア教育」に、強い違和感を持ってきました。それらの言説は、政府や経営者にとって都合の良い物語でしかないのだろう、と。

メインストリーム(王道・主流・一般的)に回収されない何かを求めて、会社側の思惑に従順ではない会社員時代の私は、はっきりいって単に「嫌な奴」や「面倒な人」です。「そんなに文句言うなら、自分で起業してご自由に好きにやればいいじゃない」と思われていたでしょう。

会社員を脱してフリーランスになったら強く生きれるかもと思ったものの、フリーランスでも法人顧客との仕事をする上では「長い物には巻かれる(経営者や市場の思惑に従う)」選択をしたほうが、楽で短期的には稼げるというジレンマに直面しました。

「このまま腹に一物を抱えながら、あと50年生きていくことは果たして可能だろうか?」と問われると、「可能かもしれないけれど、それはカッコ悪いし、楽しくないし、嫌だな」というのが、現時点での私の感覚です。
同時にそれは、私と同じような違和感を持つ多くの人々にも当てはまることのように感じます。

◆そして、“折田ちなむ”という別人格

学生時代、会社員時代、そして今のフリーランスとしての私。
「alternative(主流に回収されない生き方)」を大事にしたいという想いはありながらも、想いだけで燻りつづけてきました。

挑戦、失敗、葛藤・・・そして

本名で、何度かブログサイトを立ち上げました。

「自分のためでもあり、同じように世に何か物申したい人の代わりに、本音で言いたいことを言おう!」と意気込んだものの、「このブログを知り合いや顧客が読んで、『なにこいつ、イきりすぎじゃない?』とか思われたらどうしよう・・・?」と不安になりました。

また、どうせ書くなら収益も目指そうと考えると、ユーザー目線という名のGoogle検索最優先・上位サイト対策をしたアフィリエイト購入につながる横並びのゴミ同然のコンテンツを作ることになります。伝えたい真実・本音ではなく、当たり障りのないChatGPTのような内容しか書けず、結果やる気も持続せずにブログを書いても三日坊主、を繰り返しました。

オリジナルのプロダクト/サービスづくりを試みたこともあります。

「そうだ。クライアントワークばかりしているから、言いたいことが言えないんだ。自分の想いを乗せた商品サービスを作れば解決するのでは」と考え、事業づくりを教わるスクールなどに数十万円×2か所通いました。

けれど、それらのスクールでは「今の世にあるニーズを、いかに上手につかむか」や「不必要なサービスを、不安心を煽って売り込もう=小さなギャップを大きく、それらしく見せて自分たちが稼げる市場を創出しよう」といった、王道・教科書的なビジネスの話ばかりで、途中で嫌気がさして途中退学。お金以上に投じた時間が重くて悲しくなりましたが、世に溢れるくだらない商品サービスと同じようなもの作るよりはよかったでしょう。

八方ふさがりの中、ふと思いついたのは、「別に本名にこだわる必要はないのでは?ペンネームで別人格を作って発信すればいいのでは?」というアイディアでした。

書評・読書系のPodcast番組を数年運営する中で本を読む機会が増え、例えば平野啓一郎さんの「分人」という有名な概念を知りました。そういえば、夏目漱石三島由紀夫、宮部みゆきもペンネーム。音楽の久石譲も本名じゃない、芸能人や芸人さんも多くはそう、Webライターもライターネームの人が多い・・・。他人の別人格・ペンネームを違和感なく、私も世の中も自然に受け入れている事実に気が付きました。

「私は本名での意見発信に抵抗がある。であれば、先人に倣って別人格を創ればいい」
そこから、“折田ちなむ”という私の新しい別人格・ペンネームが生まれました。

「主体的に取り組むことや、自分の決断と行動で人生を切り開くのだ」という、新自由主義満載のキャリア論。
「世の中は、なんだかんだお金である。お金が価値=勝ちだ」とする、行き過ぎた金融資本主義
「すべては、数値化・可視化・ランキング化できる。そうできないものは無価値」とされる、認知資本主義の現世。

こういった、少なくとも2020年代の日本では主流の価値観(新自由主義認知資本主義/金融資本主義)に対して、“折田ちなむ”という別人格の力を借り、本音のアンチテーゼを発していきたい。

そのことは、「alternative」という言葉に心惹かれる私にとって自然(ネイチャー)な行動であり、また少なからず存在するであろう同じような想いを持つ人たちの元にこの発信が届き、小さくても何かの変化が起きる要素になってくれたらと願っています。

※本名で発信しないことに、ある種の「逃げ」ではないかという葛藤もありますが、ペンネームで価値ある作品を残した作家や音楽家も多数いらっしゃれば、身近な企業も「法人格(自然人ではないが人格あり)」を作って運営しているので、それと同じ感覚で発信していきます。

コラム “alternative-way-to-go”