<山伏修行 体験記> vol.4「それぞれの縁起を生きる」(出羽三山 2023年8月)
2023年夏。山形県鶴岡市にある大聖坊の山伏修行に参加。体験レポート4回目は、「縁起」がテーマ。論理や感情ではなく、感じること/直感を頼りに「縁起を生きる」。「利他」とのつながりも解説します。
(聞き手:本体、話し手:折田ちなむ)
他の体験レポートはこちら:1回目「生まれ変わりの山」/2回目「感じる・直感」を取り戻す/3回目「祈り/inori」を忘れた日本人/5回目「山伏修行から考えるサービスとは?」/6回目「修行の思い出 5選」
目次
縁起を生きる オルタナティブな生き方「alternative-way-to-go」
縁起とは
(本体:以下「本」)
今回の「縁起」というキーワード、これまた仏教の言葉で、身近だけれど深く掘り下げると難しいワードを選びましたね。
(折田:以下「折」)
私は仏教を専門的に学んだわけではなく、手前勝手に大まかな理解しかしていないため、ご指摘が入るかもしれませんが、一般人の解釈として大目に見ていただければと思っています。
縁起とは、「全てのものは、それぞれ他のものを縁(因縁)として起こり、相互依存・相互に関係している。私という人間は、過去からの、私が見たことも触れたこともない人や世界含めた、多数の縁(因縁)で成り立っている。そこに良いも悪いもない」といった意味で私はざっくり理解しています。
※参考:大谷大学 生活の中の仏教用語
縁起と、感じること/直感のつながり
- 本:
前回3回目のレポート「祈り/inoriを忘れた日本人」でテーマとなった「祈り」、そして過去・現在・未来とのコミュニケーション、という話と関連する印象を受けますが、山伏修行の中で「縁起」という言葉はどういった流れで出てきたのでしょうか? -
折:
星野先達が修行後に仰ってくださったのが、以下のような言葉です。
「みな、それぞれの縁起を生きればいいのではないか。
頭で考えて「それはリスクがあるからだめだ」とか、感情で「有名な●●さんに褒められてうれしくなり、興味のないことをやり始めてしまった」といったことが多すぎるのではないか。
それよりも、感じること/直感、魂が喜ぶことはなんだろうという部分を大事にしてみてはどうか。
みな、何十年と生きて、多くの人と出会い、様々な経験を積んできているのだから、たくさんの縁に出会い、その時々に本当は魂が「こうだ!」と感じていることがあるはず。
しかし、いつもその魂の声を止めるのは、頭・理屈や感情じゃないのだろうか。
もし、人や物事との出会いの時に(縁)、感じること/直感に従って生きてみたら、自然と縁が繋がっていくのではないだろうか」
オルタナティブな生き方や在り方を示す、金言だなと思いました。
- 本:
つまり、「自分の考えや力では及ばない何か(縁起)に導かれて生きてみては?」「(魂が)感じること/直感に従ってはどうか?」ということでしょうか。 -
折:
そういうことだと思います。一人の人間が頭で考えることなんて、限界があると思いませんか?
より具体的にイメージしてもらうために、体験レポート3回目でも用いましたが、私のビジネス領域である転職の場面で考えてみます。
応募して選考が進んだ企業から内定が出た。しかし、面接で会った経営者や社員の印象が、うまく言葉にできないけれど、なんだか偽善的でうさん臭くて、しっくりこない。
その一方で、企業の成長性や高待遇などの条件を見ると、転職するメリットが大きい。
さあ、どう判断しよう?となります。
仮にこの企業を100点満点の点数で評価したら、言語化・数値化できる要素で見ると90点などの高得点になるのだと思いますが、「感覚的に違うな」と思う企業に転職しても、結果はミスマッチになると思います。
転職支援や採用支援の現場で、「論理で無理やり納得させて、うまくいかない人々」は、本当にたくさん見てきました。
- 本:
2回目のレポート「感じる・直感を取り戻す」にもつながる内容ですね。 -
折:
先達がもう1つ、「魂(感じること/直感)は、先を行っているから」とも仰っていました。
つまり、感じること/直感(魂)は、「こう進んでいったらいいよ」「これをやったら大丈夫」「こういう人に学んでいきなさい」といったことを、わかっているということです。
だけれども、私も含めて多くの人は、「論理的・ロジカルシンキング」が大事と学校でもビジネスでも教わるので、論理偏重になって身動きとれなくなったり、魂が喜ばない(ありもしない)世間体を重視した判断をしたりする。
また、感情に支配される例で言うと、「直感的には起業したほうがいいのだけれど、家族からリスキーで不安だから止めて欲しいと涙ながらに懇願されて、断念する」みたいな感じでしょうか。
本人側は頭で考えて「家族に不安を感じさせるのは、家族に申し訳ないし断念しよう」という感情になり、家族側は「起業が失敗して、生活が苦しくなったら嫌だ」とソロバン勘定をした上で「不安」などの感情になる。こういった感情に従って判断してしまいがちだと思います。
この部分は2回目のレポート「感情と感じること/直感は違う」でも書きましたが、感情=本心・素直な本音と混同しがちなので、厄介だと思います。
縁起と利他
利他とは 与え手ではなく受け手によって起動する
- 本:
また新しい言葉が出てきましたが、「利他」というワード、ここ数年のある種の流行り言葉のような印象もありますね。改めて「利他」とは何か教えていただけますか? -
折:
「利他」も人によって捉え方は様々だと思いますが、私がいくつかの定義に触れて一番しっくりきたものをご紹介させていただきます。
中島岳志さん(東京工業大学教授)の「思いがけず利他」という書籍で紹介されている内容ですが、
利他とは
・・・自己を越えた力の働きによって動き出す。オートマティカルなもの。やってくるもの。受け手によって初めて起動する。利他の根底には偶然性がある。
よくある勘違い例を挙げると、わかりやすいかもしれません。
「情けは人の為ならず=将来的に自分にメリットが返ってくるから施しをしますよ」や、「自社のブランディングの為にも、社会貢献/SDGs的な活動をしていこう」という、胡散臭い“利他っぽい”偽善や利己的な思惑とは異なるということです。
決定的な違いは、与え手側が受け手側に対して何らか支配しよう/影響力を持とうとしたり、見返りを求めたりするか否か、というところだと思います。
- 本:
ムムム・・・わかるようなわからないような・・・。もう少し具体例などで補足いただけますか? -
折:
少し長くなりますが、中島岳志さんの本に出てくる、著書ご本人の体験をベースに自分の意訳も含めて、以下で説明させていただきますね。
中学時代のある先生とのお話なのですが、上級生と中島岳志さんがケンカになり、暴力を用いたことをその先生から咎められ、同時に「知性で物事を解決できる人間になりなさい」と諭されたそうです。
ただ、その当時の中島岳志さん本人にとって、自分なりの理由があってケンカになった背景などを考慮されずただ叱られたことに反発する気持ちでいっぱいで、先生のアドバイスは全く頭に入らなったようです。
けれど、その後10年以上が経過し、京都大学大学院で調査研究をしているとき、ふと自分の歩んできた道を振り返り、はたとあることに気づかれたそうです。
その中学時代の先生の言葉を受け、中学時代は運動部ではなく社会学部という調査系の部活動を選び、その選択・経験が今の自分につながっている。その先生がいなければ、今の自分はなかったのではないかと。
中島岳志さんが大学院時代に先生への感謝の念を持ったタイミングで、先生はお亡くなりになられていたそうで、感謝を伝えることはできなかったそうです。
しかし、「利他」の概念から考えると、仮に感謝の気持ちを伝えても、先生としては「俺、そんなこと言ったっけ?」と覚えていらっしゃらないと思います。先生の心の中に、中島岳志さんに対して「いいこと言って感謝されたい」という利己的な発想は存在しなかったのではないでしょうか。
つまり、与え手(先生)は、ただただ純粋にその時の中島岳志さんのことを思ってアドバイスをした。受け手(中島岳志さん)はその時は全くそれを受け取ることができず、10年以上の時が経過し、先生の言葉によって自分の人生が進んでいる(縁)に気づいた。そのことは、10年という時を経て受け手によって初めて「利他」が起動したといえる、ということです。
縁起と利他の共通点
- 本:
なるほど!よくわかりました。
「利他」というと想起されるボランティアや寄付なども、「こんないいことをするのだから、感謝されたい」とか「周囲から社会的に良い行いをする善人と見られたい」などの想いがあれば、いかに社会貢献的な行為をしていても、それは利他ではないということですね。 -
折:
まさにそうだと思います。
この与え手が意図や計画できない、受け手もどういった形でいつ「利他」を受け取れるかわからない。
より突っ込んで言うと、受け手が一生気づかない/気づけない「利他」というものが、たくさんあるのだと思います。(そして、別に気づかなくても良い)
ここが「縁起」との共通点で、恐らく私も含めて全ての人が、日々たくさんの素晴らしい「縁起」や「利他」の種となるものに出会っているはずなんです。人や体験、情報などなど。
ただし、そこで多くの場合は、論理や感情が優先し、感じること/直感を後ろに追いやってしまいます。「より利益が大きいのはこちらだ」
「自分が重要人物と賞賛される状態を守り気持ちよくいたい」
「ボランティアをして社会的に厳しい立場の人たちから感謝されたい」
「自分の社会的な立場や経済力は、自分の力だけで獲得したものだ」
などのイメージです。
もし、論理や感情ではなく、「思いがけず/偶然性」「感じること/直感」に従って行動や判断をしていったらどうなるか?
もしくは「今の自分は一人でこうなったのではなく、過去からのつながりや目に見えないものの力によって形成されている」と受け止めることができたら、どうなるか?
まさにオルタナティブな心の持ちよう・在り方だと思います。
- 本:
「縁起」も「利他」も、個人の論理や感情という狭いところに閉じず、過去からの時間の大きな流れや目に見えないものなどに開かれている、オープンな在り方のように感じました。 -
折:
山伏修行で最重要とされている、「感じること/直感」というテーマは、まさに仰っていただいたことにつながると思います。
「感じること/直感」を少し大事にしてみたら、思いがけない縁起や利他が、きっとある。
ただ我々は、それを論理と感情を優先して、自分たちで見えない・感じないようにしているだけなんだろうと思います。
「alternative-way-to-go(オルタナティブな生き方)」を強く感じますね。
さて、次回5回目の体験レポートでは、少し趣向を変えて「山伏修行から考えるサービス」ということをお話したいと思います。
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この記事を書いた人
◆オルタナティビスト:既存の価値観や視点ではなく、「alternative(オルタナティブ)=別の生き方や見方」を探す人。
◆スタンス:「Unique,Ironical,Nature」をモットーに、「それ、みんなもおかしいと思ってない?!」という本音をアンチテーゼとして発信。
◆「折田ちなむ」とは:世に溢れかえる、ありきたりで横並びのSEOコンテンツではない、本音を発信するためのペンネーム(オルタナティブ→おるた)。
◆プロフィール:40代男性/家族(妻、息子2人)/人事領域のフリーランスコンサルタント(人材業界約15年、国家資格キャリアコンサルタント、2018年独立)/東京・神田にオフィス/某国立大学大学院修了/関東在住/人口3万人の海辺の田舎町出身/市民ランナー(サブ3目標)/読書・書評系Podcast運営