「目的や目標」を持つことは大事、なのか。ストレングスファインダーで「目標志向」が出ることを密かに自信にしてきた折田ちなむ氏。目的・目標って必要なのか?(聞き手:本体、話し手:折田ちなむ)
(本体:以下「本」)
ワーキングホリデーと目的・目標。この2つのキーワードは、どうつながるんですか?
(折田:以下「折」)
“alternative”に込めたメッセージでも少し書きましたが、20代前半の大学生時代、ワーキングホリデーでニュージーランドに約1年、住んでいたんですよ。
大学4年生を休学して、就活をせずに海外に行った形でした。
でも、しっかり目的・目標を設定せずに行ってしまったワーキングホリデーを、今までずっと後悔していたんです。いや、まだ引きずっているから現在進行形の「後悔している」ですね。
本:
別にいいじゃないですか。学生時代に海外で1年遊ぶくらい。青春の1ページみたいな。
折:
陳腐な表現は止めてくれませんか。「青春の1ページ」だなんて。
それはさておき、後悔するようになった背景はこうです。
1.英語力の観点
ワーホリで海外に1年いたって、たいして英語力は伸びなかった。
ファームステイ(牧場や農場で働く代わりに食事やベッドを提供してもらえる。農場の人たちは実はインテリで国内外の気象情報や物価情報を毎日チェックしている!)や、バックパッカーホステルで多国籍の人(カナダ、フランス、アメリカ、ドイツ、タイ、インドネシア、韓国などなど)たちと遊んだり、日本に出荷されるアスパラガス収穫やワイン園でブドウ積みをして働いたり、をしていたので、日常会話はできるけど・・・という感じ。
2.就活で活かせなかったという観点
21・22歳当時の私にとって、「海外で1年生活する」というのは大きなチャレンジでした。その約1年間の経験は、今振り返るとよくある海外での経験でしかないと思います。
けれど、若い時って特に視野が狭いので、「同世代の人間と違い、俺は海外でこんな経験してきたんだぜ!(こんちきしょう!)」と自慢したいとか、周りからすごいねって承認されたい気持ちが強かったんです。
ところが、就活の合同説明会や大学内の就職課などで「ワーホリで・・・」という類の話をしても、大人も学生も「へぇー、そうなんだ、いいね」くらいのうっすーい反応なんです。
密かに「ワーホリとか海外での経験って、就活でネタになるよね」と考えていたので、ショックでした。
本:
まあ、そりゃそうなんじゃないですか?認識が甘いというか、自己中というか。だって、現地の大学に通って学位を取ったとか、社会貢献活動をしたとかじゃなく、遊んで旅してただけでしょ?
折:
なんでそんなに冷酷なつっこみができるんですか・・・
しかし、ご指摘の通りです。ワーホリから帰国後、最も後悔したのは「目的・目標をもって海外に行けばよかった。しっかりと海外大学の学位を取るなど、形にすればよかった」という、無目的で目標を決めなかった自分自身への後悔です。
約1年間、無駄にしてしまった、浪費してしまった。周りから何も評価されない、独り相撲をしてたんだ・・・と、ワーホリに行ったこと自体を恥じていた時期もあります。
本:
そんな後悔ばかりの無目的・目標だったワーキングホリデーinニュージーランドを、今いまの2023年は受け止め方が変わったということでしょうか?
折:
今は、「逆に無目的・目標だったことが良かったんじゃないか?」と思いたい、と思っています。
“思いたいと思っている”という表現も変ですが、願うとかそんな強さはないので、こう書きます。
冒頭もお伝えしたように、ストレングスファインダー上位5つに毎回「目標志向」が入ります。確かに「今、何をすべきか」を決めて目標達成のためにアクションできることは、特性・強みだと思いますし、良いことだとも考えています。
一方で、「目標がないと動けない」から、「安易・わかりやすいものに目標設定して安心しがち」という弱点もあると最近考えていて。
ざっくり私のワーホリのケースで言うと、英語とか学位といった一般的かつ王道な目標設定をして、その達成のために邁進しちゃう感じです。
その場合、ファームステイとかバックパッカーホステル暮らしとか、目標達成に対しては完全な無駄になると思うんです。だから、もし「ワーホリの目的はこうだ。目標はこうだ」と決めていたら、一見無駄な経験ができなかったのだろうなと思い、認識を修正しかけているところです。
(もちろん、ニュージーランドの大学に通ったら、ならではの経験もあったと思いますが)
本:
もともとの折田ちなむさんは、よく言うと合理的。悪く言うと「遊びがなくてつまらない人間」ですからね笑 無駄な「遊び」があって良かったんじゃないすか?
折:
そういう上から目線の批評は心外ですが・・・
まあ、当たらずも遠からず。もとい、悔しいですが核心をついています。
本音ベースで、私は真面目で目標思考で物事を最短距離でスピーディに進めます。なので回り道とか寄り道とかできないタイプなんです。
そんな私が「大いなるムダ」を20代前半でしていた。そのことを、逆にほめてあげたいなと思ってるんです。人間として余白・幅をちょっとは持ってたじゃない。グッジョブ!というやつですね。
本:
以前のコラム「“目標設定”私論」でも、形骸化した目標設定は必要ないという論を展開されていました。改めて、目的や目標は必要でしょうか?
折:
あったほうが良い時もありますが、目的・目標を意識的に持たない場面や時間を設けることが大事なのだと思います。
旅で喩えると、「この3泊4日の旅で人生の洗濯をしてリセットするぞ!(目的)」「そのために、人気サウナに〇回入って、パワースポットの▲と■と●に行って、食事は・・・(目標)」とガチガチに決めたとしたら、それはそれで有益かもしれませんが、目標行動を追いかけるだけで、心底楽しい思い出にはならないだろうなって思うんです。
旅先のその地域から受ける印象や空気感、自分の感情や体調などを大事に、その時々で決めていく方が、無駄やこぼれ落ちるものがあったとしても、結果的に楽しい思い出になる気がしています。
人の人生も、それと同じかもしれません。
どうあがいたって、目的・目標・計画通りにはいかないときもあるのだから、ときには目的や目標を手放して流れに身を任せた方が楽しく、彩りが豊かな人生になる、なんちゃって。